Mr.Children「Starting Over」と映画「バケモノの子」

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先週見てきた映画「バケモノの子」の主題歌には、Mr.Childrenの「Starting Over」が使われています。
この曲、色々な解釈が出回っていますが、あえて映画にこの歌をタイアップしたと言うことは、映画とどこか繋がる部分があるかもしれない。そう思い、映画を振り返りながらこの歌を映画視点で紐解いていこうと思います。
※映画のネタバレになるので、ネタバレが嫌な方は回避お願いします。

まず、「Starting Over」の歌詞を。

肥大したモンスターの頭を 隠し持った散弾銃で仕留める 今度こそ躊躇などせずに その引き金を引きたい
あいつの正体は虚栄心 失敗を恐れる恐怖心 持ち上げられ浮足立って 膨れ上がった自尊心?

この、「肥大したモンスター」。私が映画抜きにした感覚だと、「今までのミスチルのイメージ」とか「これまでのミスチルの路線」とかそんな感じのものを感じていましたが、それはここでは割愛。
映画だと、モンスターとはバケモノのことかなと思ったけど、別にバケモノを殺すようなシーンはなかったし、「何かへの攻撃」「自己との葛藤」などがその後の歌詞から見られるので、それを作中で一番体現していた主人公・九太の視点から見てみますか。

九太が反抗、攻撃していたのは、「家のことしか考えない親戚」、「粗暴な熊徹」辺りか。それに加えて、「何もできないくせに威勢だけはでかい自分」辺りも。実際親戚から逃げた時に出た「大っ嫌いだ」って感情が九太の「闇」になったわけだし。親戚には逃げ出しただけだし、熊徹には別に攻撃は出来ていない。そう考えると、これもやはり九太自身が、「自分は親戚の下にも帰りたくない、誰も信用できない」って気持ちがどんどん募っていって、だけど多々良に冷たくされて、次郎丸にいじめられて、弱い自分を見せつけられた。そのうえで、「誰も信用できない自分」「けど生きていきたい」「けど自分一人では生きられない」み隊な葛藤から「熊徹のことは嫌いだけど、でも強くなるために一緒に暮らす」って決めた。
つまり、「肥大したモンスター=弱くて誰も信じられない自分」で、「撃ちぬいた=誰かに頼ることにした」、「躊躇などせずに=信じられないって反抗意識をなくしたい」みたいな感じかなあと。実際九太は成長したら相変わらず口は悪いけど熊徹と確かな絆ができていたし。


さあ 乱れた呼吸を整え 指先に意識を集めていく

この辺は、おそらくラストバトルあたりのことだろうな。「心に剣を」の場面。ラスボス相手に苦戦し、追い詰められたとき、熊徹の助けで、そして熊徹が言った「心に剣を持つ」ことを思い出して、一点集中して、大逆転を果たすその直前。
人の話を丸で聞かなかった九太が育ての父の言葉で逆転するシーンそのものと言ってもいいかも。

僕だけが行ける世界で銃声が轟く 眩い儚い閃光が駆けて行った

時系列がちょっと違うけど、これは熊徹が九太の「刀」になったあのシーンだろう。「僕だけが行ける世界」はバケモノたちの世界。人間では九太(とあと一人)しか行けない世界だったわけで、そこで轟いた銃声は、熊徹の転生。実際そのシーンでは、九太めがけて眩くて、そして儚い閃光が駆けて行く。そのシーンが思い出されるような、映画とシンクロした歌詞だ。

何かが終わりまた何かが始まるんだ そうきっとその光は僕にそう叫んでる

このフレーズ、映画見てからだと歌うだけで涙ぐむ。
あの熊徹が九太の「刀」になったシーン。そこで何かが終わり、そして何かが始まる。終わった「何か」は、「九太と熊徹の親子としての生活」とか、「熊徹のバケモノとしての人生」とか、「ラストバトル」もそれだろう。そして終わったことで始まるのは「九太の実父との生活」「新たな友達楓との大学へ向けた勉強」といった、今まで渋天街で暮らしてきた九太がこれからは人間の世界で暮らしていくこと。それが始まる。それをその光=熊徹が言っていると思うと感慨深い。きっと九太のことだから「うるせえわかってるわバーカ」とか憎まれ口叩くんだろうなあとか想像が広がります。

追い詰めたモンスターの眼の奥に 孤独と純粋さを見つける 捨てられた子猫みたいに 身体を丸め怯えてる

続いて2番。ここはおそらく主人公九太ではなく、その対抗軸となる「一郎彦」を九太の視点から歌ったものだと思う。
一郎彦を追い詰めた九太が見た一郎彦は、自分と変わらない、バケモノに育てられた、バケモノの子、だが人間。一郎彦はずっと、父猪王山の背中を見て気高く礼節をわきまえた好青年として育っていった。だが、自分が周りと違うことについてどんどん孤独に感じて、その度に父に「自分は何者か」と聴くが、はぐらかされてしまい、どんどん孤独と「闇」は膨らんで行った。自分が皆と違うんじゃないか、自分は一人なんじゃないかといった不安に。それが怯えとなって、一郎彦の「闇」となっていった。だけど、その根っこは繋がりを求める純粋さだけで、そう言う意味での「孤独と純粋さ」なのかなあと。一郎彦と対峙した九太は、同じだからこそ、それを感じ取れたのだろう。

ああ このままロープでつないで 飼い慣らしてくことができたなら

これは九太自身のモンスターのことかな。九太自身の「闇」を飼い慣らしていければ、飲みこまれなければ、誰も傷つけることはない。実際闇に囚われて楓や一郎彦を傷つけかけたし。
同時に、一郎彦の父、猪王山の心情かもしれない。一郎彦の闇にうすうす感づいてはいたが、自分ならそれを飼い慣らせるって自負があった辺り。

いくつもの選択肢と可能性に囲まれ 探してた望んでたものがぼやけてく

いくつもの選択肢と可能性、というのは九太が初めて人間界に戻った時に楓と出会ってできたものだろう。字が読めなかった九太はものすごい集中力があるから、その気になればなんだってできると楓は言っていて、その後実父とも再会して、だけどずっと育ててくれた熊徹たちと、強くなるための修行もあって。
元々九太が熊徹に弟子入りしたのは「一人でも生きていけるほどの強さが欲しい」っていう力と自立への渇望からだったわけで、でもそれだけじゃない世界を見て、人に出会って、ただ力を求めていくことが少しずつぼやけて行ったわけだ。

何かが生まれまた何かが死んでいくんだ そうきっとそこからは逃げられはしないだろう

これは一般的な死生観でもあるけど、なにも命だけじゃなくて、それまで当たり前だったことにも言えると思う。
映画で言うなら、「人間界での新たな生活」が生まれ、「渋天街で熊徹や多々良、百秋坊の生活」が死んでいくと。いろんなものに触れていくってことは、きっと今までの日常が死んでしまうことでもある。それは、生きている限り、様々なものに触れていく限り避けられないものなんだ。

穏やか過ぎる夕暮れ 真夜中の静寂 またモンスターが暴れ出す

これも映画のラストバトルっぽい。「穏やか過ぎる夕暮れ」は、渋天街の一幕。確か、ボクが一番感動した九太と多々良が泣きながら抱き合うシーンも、穏やかな夕暮れだった。そして人間界で、楓と上野まで逃げた時は、真夜中で、不気味なほどに静かだった。それが「真夜中の静寂」だろう。そして、その時ラスボスが姿を現す。

僕はそっと息を殺し 弾倉に弾を込め この静かな殺気を感付かれちまわぬように

心に「熊徹」という剣を持った九太は、殺意剥き出しではなく、その研ぎ澄まされた集中力で、ラスボスの閉ざされた心を切り裂く。その前段階ってところだろう。

今日も僕だけが行ける世界で銃声が轟く 眩い儚い閃光が駆けて行く
何かが終わりまた何かが始まるんだ そうしてずっとこの世界は廻ってる
何かが終わりまた何かが始まるんだ きっと きっと

そしてラストには、サビを繰り返し。それだけあのシーンは大事なシーンで、このメッセージは映画としても歌としても重要なものなのだろう。
ここで加わってる「そうしてずっとこの世界は廻ってる」ってのが、九太達の未来はこれからもそうやって続いていくんだ、みたいな未来を匂わせる終わり方ですごくいい。

総じて、映画視点で見た「Starting Over」は、九太視点でラストバトル時の心境、そして対峙する相手への心境、これまでとこれからを歌っているなあって思いました。

やっぱりタイアップがあるから、映画を先に見せてもらってある程度リンクするように書いたのかしら。映画とリンクさせつつも、桜井さんの内省的な歌いたいこともしっかり歌う。本当に桜井さんは作詞センスが恐ろしいです。

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Category: 音楽

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